「はい、到着。降りてください」 彼女に案内された先は、ミューズ・シティの現場にほど近い、線路のガード下にある屋台だった。 「ご苦労だった。帰りは車を拾うから君は戻ってくれ」 大地は運転手を先に帰すと、先にのれんをくぐった陽南子の側に腰を下ろした。 すでに3月とはいえ、まだ夜は冷え込む。目の前で煮えるおでんの湯気にじんわりと温もりを感じながら、隣に座る女に目をやった。 「おばちゃん、適当に見繕って。それからビールも」 慣れた様子で注文する彼女を見て、会社帰りに一杯引っ掛けているオヤジのようだと笑いがこみ上げてくる。 「飲めるクチか?」 「まぁそこそこには」 「大方酔ってとぐろを巻いたりしているんだろう」 「失礼な!自慢じゃないけど、私ちょっとやそっとじゃ酔わないから」 陽南子はそう言うと笑いながら、出された2つのコップにビールを注ぐ。 「今日はありがとうございました」 受け取ったコップを軽く合わせてから、彼女は中味を半分ほどを一気に煽る。 大地もビールで口を湿らせると、出されたおでんに手を伸ばした。 「ビール、お口に合わないですか?」 陽南子はこちらを伺いながら少し心配そうにしている。 「いや、久しぶりだからな。どうしても付き合いだとワインやシャンパン、ブランデーなんかが多くなるからね。これでも学生の時には缶ビールをよく飲んだんだが」 「う−ん、想像できないな、社長が缶ビールを飲んでいる姿なんて」 はんぺんに齧り付きながら、陽南子が笑う。 大地も大根を箸で切ると、熱々を口に運んだ。 「陽南ちゃん、熱燗をつけようか?」 屋台の女主人が酒たんぽを用意している。 「いいよ、おばちゃん。今日はビールだけで」 そんな女主人との掛け合いに、彼女がよくここに通ってきていることが窺えた。 「よく来るのか?」 「時々は。現場の近くだし、憂さ晴らしでもしないといろいろ溜まっちゃうから」 陽南子はそう言ってビールを手酌で注いだ。 「それに、こんな格好だとお店に入るのにも気を使うでしょう?ここは気兼ねせずに来れるから好きなんだ。それに何よりタバコの匂いがしない」 側に積んであった灰皿に手を延ばしかけた大地の手が、それを聞いて止まった。 「タバコ、苦手かな?」 「あ、いいですよ、吸っても。ここだと煙が籠もらないから大丈夫」 それを見た陽南子が慌てて否定する。 「昔から、煙はどうも苦手で。最近は分煙器が付いているところが多いから助かっていますけど」 「ふうん、それじゃぁ…止めておこう」 引っ張り出しかけたタバコを戻すと、大地はシガーケースをポケットにしまった。 「でも…」 「いいんだ。無理に吸わなくてもいいから」 「すみません」 陽南子は本当に申し訳なさそうに頭を下げた。 「気にしないでくれ。それより君のお勧めは何かな。もう皿が空になったよ」 「ご馳走様でした。今日はありがとうございました」 夜も更け、日付が変わる頃、大地と陽南子は屋台を後にした。 自分が誘ったのだから、奢るという彼女を強引に説き伏せて会計を済ませると、大地は携帯で近くの大通りまで車を呼んだ。 「それじゃぁ、私はここで失礼します」 そう言って立ち去ろうとする彼女を、大地は慌てて呼び止めた。 「君はここからどうやって帰るつもりなんだ?」 「え、私ですか?そこの現場にトラックを置いてあるので」 「でもアルコールを飲んでるから、乗れないだろう?」 この夜、二人はかなりの量のビールを飲んだ。それでも酔った素振りを見せないところを見ると、彼女が酒豪というのは嘘ではないだろう。 日頃からアルコールには強いと自負する大地だが、彼女は同等、いやそれ以上のうわばみかもしれない。 「もちろんです。だからトラックで少し仮眠を取って、酔いを冷ましてから帰ります」 それは聞き捨てならなかった。 夜間は人気がない工事現場で、若い女性が一人きり、車内で仮眠をとるだなんて、信じられないことだ。 「そんな物騒なことをさせられない」 「えっ、何で?何か問題でもありますか?」 陽南子はまったく意に介せずと言わんばかりに首を傾げた。 それを見た大地は内心溜息をつく。 まったく、彼女には自分が女性だと言う自覚がなさ過ぎる。確かにそこらの女たちに比べると色気はないかもしれないが、れっきとした未婚の、うら若き女性なのだ。何か間違いがあったりしては取り返しが付かない。 「来なさい。家まで送るから」 「ええっ?いえ、いいです、遠慮します。ウチ、遠いですから。お気持ちだけで…」 「いいから。あんな所に一人で置いて帰ることなんてできるわけがないだろう、まったく」 逃げ腰になる陽南子の腕を掴んだまま、大地はずんずんと通りの方へと向かって歩き出す。 「あ、あのっ、私、明日、車がないと困るんですけど…」 「明日の朝、誰かに送ってもらいなさい。だれもいなかったら僕が車を回してやる」 「いえ、そんな滅相もない」 大地が本気だと分かったのか、彼女は顔を引き攣らせている。 「先に君を送ってから帰るからな」 「でも、ウチ本当に遠いんです」 この期に及んでまだ抵抗する陽南子を引きずるようにして、彼は大通りに出た。 「構わない。今ここで別れたら、君、こっそり現場に戻るつもりだろう。絶対にダメだからな」 彼は呼んで待たせていたハイヤーに彼女を押し込むと、さっさと自分も隣に乗り込んだ。 「さて、自宅は?場所を言って」 「いえ、本当に…」 「言うまでここから動かないからね」 大地は下手な小細工は許さないとでも言うように、シートにどっかりと座ってこちらを見ている。 この状況に陽南子は窮した。 彼女が住んでいるのは、巽組の事務所も兼ねた祖父の家の2階だ。下町ならではの軒を連ねた近所は昔なじみが多い。夜中に男の人に家の前まで送ってもらったところを見られたりしたら、後で何を言われるか分かったものではない。 ただでさえ、ここのところ周囲が煩いのに。 「あの、でしたら…そう、駅、駅まで送ってください。ウチ、駅から徒歩3分なんです。この時間ならまだ電車が動いてるんで」 「何でまた」 「あー、非常に申し上げにくいんですが、近所の目が…」 大地は天を仰いで嘆息した。もっとも、ここでの天はハイヤーの天井だが。 「そうか、すまない、気が回らなかった。こんな時間に男と二人でいるところを見られると差し支えるんだね。君が未婚の若い女性だということを忘れていたよ」 『いやいや、そんなに若くないし。それにあんた、最初から私のことをそんなふうに考えたことはなかっただろう?』と陽南子は思わず心の中で大地に突っ込みを入れる。しかし問題の本質はそこではない。 彼女だっていい年をした大人の女なのだから、男友達の一人や二人、付き合いがあっても誰もそれを咎めることはないだろう。実際はその逆で、適齢期を過ぎようとするのに一向に浮いた話がない自分に、近所の人たちはあれこれと要らぬ世話をやいてくれる。彼女が30歳を目前にした今、ご近所が総仲人状態と言ってもいいくらいだ。 そんな彼らにこの状況を見られたら、問答無用で一足飛びに「いつ結婚するんだ?」と突きまわされるに決まっている。 それが少々鬱陶しいだけだった。 その上、特に今年になってからは、母方の親戚や、遂にはあの祖父までがいろいろと口を出すようになってきた状況に、陽南子は頭を抱えていた。 もちろん彼女だって結婚したくないわけではない。 だが、何分にもなかなか条件が厳しい。 例えば、175センチもあるこの身長。力仕事のお陰で余分な肉はつかないが、その分肩や腕は筋肉が盛り上がっていて、とても女らしい体つきには見えない。それに現場に出るため、年中日焼けで真っ黒だし、男の人に囲まれているせいで、言葉遣いが荒くなってしまう。ついでに、情けないことに家事はまったくできず、今でも同居している祖母に任せっきりだ。 そんな自分を鑑みていると、夫を探すより嫁を探した方が早いのではないかと思ってしまうくらいだった。 「分かった。駅まで送ろう。とにかく家に帰りなさい、いいね」 大地はそう言うと、彼女が使う線の一番大きくて、発着数の多そうな駅へと車を回した。 「重ね重ね、すみません。あの、ご馳走様でした」 先にハイヤーを降りてドアを押さえて立っていた彼に深々と一礼すると、陽南子はあっさりと深夜の駅に消えて行った。 途中で一度だけ振り返り、手を振りながら周囲が立ち止まるほどの大声で「お休みなさい」というあいさつを残して。 大地はその後姿を唖然として見送っていた。 彼が勧める高級なレストランを断り屋台を選んだ女性は初めてだった。それを言うなら、支払いを自分がすると言い張られたのも、彼が送ると言ったのを拒まれたのも初めてかもしれない。 女性に頼られ、エスコートすることに慣れていた大地は、こういったタイプと付き合ったことがなかった。決してわがままではないが、自分の価値観からくる真っ当な主張を貫こうとする、そんな陽南子の様子は、いつも彼に新鮮な驚きを齎すのだ。 大地は車に乗り込むと、軽く目を閉じて、今し方別れたばかりの彼女のことを思い出す。 怒ると顰められる眉、困ったときに伏せる目、反論する時に必ず指を添えられる唇。耳に残るハスキーな声さえも、彼女の快活なイメージを損なうことはない。一見女らしさとは無縁のようだが、男の粗雑さとはまた違う所作をする身体。 そして、何より彼を惹きつけてやまないのは、内面から輝きを放つような颯爽とした彼女の笑顔だった。 そんなことを考えながら、大地は我知らず「ふっ」と唇の端を歪めて笑った。 ―― 巽陽南子さん。まったく予測不可能な女性だね、君は。 ―― HOME |